コロナ時代の介護の話 -自分を守るために必要なこと-

雑記

介護が始まる際、一番最初に考えるのは、介護が必要な人のことだと思います。

ただ、もし今あなたが介護をしている、または今後介護をすることになることが予想される場合、第一に考えて欲しいことは、「今後10年、その生活ができるかどうか」です。

先日、気持ちに任せて、父の介護であったことをそのまま記事にしました。

コロナ時代の介護の話 -2年の介護であったこと-

改めて、父の介護を通じて、かなり恵まれた環境にあったことを痛感しました。

今回は、その経験を通じて気を付けた方がいいことや、アドバイスなどをお伝えしたいと思います。もちろん、これが絶対の正解ではありませんし、人によっては合わないこともあると思います。一つの意見として持っておいていただけると、お役に立つこともあると思いますので、是非お読みください。

介護はどれだけ続くかわからない

介護は、どれだけ続くかわかりません。最初に父の脳腫瘍が見つかったのは、2006年頃のことでした。その時、医者からは「手術をしなければあと1年」と言われました。

手術は無事に成功し、父は何事もなく仕事を続けていました。脳腫瘍は痛みが出るわけでは無いので、父も甘く見ており、ほとんど通院をしなくなりました。そして、数年後、脳腫瘍が再発します。

2度目の手術を行いました。てんかん発作などは2回目の時点で起こっていなかったため、運転はしてもいいと言われていましたが、父はトラックの運転手だったためリスクが大きく、会社をクビになりました。

そこから、母はかなり短期的な思考に陥りました。「あと半年かもしれない…。」「あと3か月のことだから…。」

それが本気で危ないと感じたのは、3回目の手術の時でした。地元の病院では手に負えず、大学病院での治療となった際、大学病院の先生が介護申請を勧めてくださいました。手術前の段階でも十分に介護申請を行うべき状態だと思われたそうで、ここで初めて介護申請のお医者さんによる考え方の違いを感じました。

そして、要介護2の審査を受け、自宅介護が始まります。幸い、この時私は転職して地元に戻ってきており、平日休みが多かったため、ケアマネージャーとの相談の際には十分立ち会うことができました。

この時、母はパートで働いており、私は離れて一人暮らしをしていたのですが、母の「あと少しのことだから…」が裏目に出ます。かなり母が介護を背負いこむ形になってしまいました。

甲状腺がんの手術を終えると、しゃべること、ご飯を食べることが困難になりました。ここから自宅での介護が困難になってきます。しかし、ここで母の人の話を都合よく聞く性格、父の大雑把な性格がかみ合わず、医師からの食事制限を全く守らなかったり、父が転倒や漏らしてしまったりすることが出てきました。

このころから、母が目に見えて大変そうになっていました。私も手伝えることは手伝っていましたが、仕事の際などは動けず、また母も仕切りに手伝いは必要ないと言っていたことから、あまり手を出せることはありませんでした。

このあたりから数えて、母が3か月ほどを想定していた介護は、全部で4年ほど続きました。

介護は、長く続く可能性がありますし、長く続くことは本来家族が長生きするという喜ばしいことです。そのためには、自分と家族が無理のない範囲で介護を行うことが極めて重要です。

介護度は再審査をお願いできる

介護度2での介護がしばらく続いていましたが、この介護度2の判定は3度目の脳手術を行い、甲状腺の手術を行う前に行った審査の結果です。つまり、脳の手術の影響によるふらつきやてんかん発作のリスクのみを考えてつけられたものです。

甲状腺の手術後、発話や飲み込みが難しくなったため再審査を申し出ましたが、ケアマネージャーさんいわく、おそらく介護度が上がることは無いというお話でしたので、再審査は行いませんでした。

この後、4回目の脳外科手術を行った際に再審査を行い、なぜか容態が悪くなったのに要介護1と介護度が下がりました。

その1年後「いくら何でも要介護1はおかしい」と誤嚥による肺炎で緊急入院先した病院の先生が言ってくださり、介護度の更新時期が近かったため審査したところ、要介護5という最高の介護度が付きました。なんなんでしょうね、介護度って…。再三通院している病院と介護施設に「要介護1で介護施設に頼る人なんていませんよ!」などと怒られていたのは何だったんでしょう…。

しかし、介護度が下がることは悪いことばかりではありません。介護に必要なことが減る分、デイサービスなどの料金が安くなることもあります。

3回目の手術後、自宅介護をしていた際には介護度2でもベッドのレンタルや在宅看護、嚥下のリハビリなどを十分に受けることができていたので大変助かっていました。

・・・改めて思いますが、自宅介護していた状態が介護度2なのに、そこから誤嚥性の肺炎を起こすようになって、意思疎通もうまくできなくなって、病院から抜け出そうとして出入口で倒れているのが発見されている状況のなにが要介護1だったんでしょうね。コロナの影響で退院させたい一心だったのでしょうか…。

市役所に迷惑は掛かりますし、多少費用も掛かるのですが、人生がかかっています。遠慮なく再申請は行いましょう。仮に介護度が下がったとしてもその時の正しい介護度を判定してもらう事には十分意味があります。

被介護者だけでなく、自分にも合う病院を探してみるのもよい

母は自分がこうだと思ったら、人の意見が全く聞き入れられないタイプの人でした。一方、被介護者の父は病院の先生が言ったことは何も考えずお願いしてしまう人でした。

大学病院は、父の望む最先端の医療を提供して下さり、家族には十分な説明をしてくれていました。

しかし、甲状腺の手術を行った際、担当医は脳外科の先生、執刀医は耳鼻科の先生となったときに、母は混乱し始めます。今後の方針を話すのが脳外科の先生であるため、母の質問に十分に答えられず、母の不満が募っていきました。

大学病院から地元の総合病院に転院となり、事態はより酷くなります。病院からはコロナを理由に一刻も早い退院を求められました。

そして、通院となった総合病院のお医者さんともそりが合わず、常に喧嘩をしているような状態で、母では話にならないと病院に呼び出されることもありました。

無理やり退院したことが祟り、誤嚥による肺炎を引き起こし、再入院となりました。そこで、初めて家族の気持ちになって話を聞いてくれるお医者さんに出会いました。

「認知もあいまいになっているし、がんの進行を考えると、これ以上手術などの積極的な治療を行う必要は無いと思いますよ。」という言葉に救われました。

その後、認知の曖昧さは長引く入院生活の影響が大きかったことがわかりました。外科的な根本治療ではなく、今できることをやっていく方針に代わってからは、父の認知機能は大幅に向上しました。

正解がある話ではありませんが、少なくとも私たち家族にとっては治療ではなくリハビリに向いたことは大正解でした。

結果的に、父を亡くなる前に家に帰らせてあげることができました。再度大学病院に搬送という話になっていたら、おそらく家に帰りたいという願いはかなえてあげられなかったと思います。

介護施設も合ったところを探す

介護施設には、色々な種類があります。4度目の脳の手術をした後に入った介護施設は、全く私たちにあっていませんでした。

ルールがきっちりとしており、嚥下が難しい人には差し入れは厳禁、通院以外は顔を見ることも許されず、本人の体調がどんなに悪くてもリハビリを行い、具合が悪く病院に行く際にもルールに則って効用スペースの椅子で待たされていたようです。

コロナにより半ば追い出されるような形で病院を退院した上、なぜか介護度が下がるという状況だったので、介護の選択肢は極端に狭まっていました。その中でも、設備や対応がしっかりしたところで検討したのですが、案の定母とは合いませんでした。いや、ここだけは私も合いませんでしたね。最悪でした。

その時は比較対象が無かったので、介護施設ってこんなものだと思っていましたが、今思えばひどい施設でした。どこの評価を見ても★1つでしたし…。

別に代わることも問題なくできるので、もし本人に、また自分に合わないと思ったら介護施設も再検討してみるといいと思います。介護施設に入ると、そこのケアマネージャーさんが担当になるのですが、地元のケアマネージャーさんも連絡をすれば相談に乗ってくれます。

まとめ

コロナ禍の介護だけではなく、いつの時代も変わらないことになってしまいましたが、重要な点は、

  • 10年続くと思って考えよう
  • 納得がいかなければ介護度の再審査をする
  • 病院は代わってもいい
  • 介護施設も代わってもいい

コロナ禍では、病院や介護施設のルールがよりシビアになっているため、より慎重に吟味する必要性があります。自分に合った介護の形を考え、地域のケアマネージャーさんなどに相談しながら進めていくといいと思います。

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