コロナ時代の介護の話 -2年の介護であったこと-

雑記

昨年末、父が逝去致しました。ここ2年ほど、まさにコロナ禍の闘病生活の末、72歳で亡くなりました。

コロナ禍の介護は本当に想像を絶する大変さがあると思います。ただ、私たち家族の場合は、良いお医者さん、良い介護施設に出会い、比較的納得のいく形で介護を続けることができました。

コロナ禍の介護について、あったことや感じたことを書いていこうと思います。

要点だけまとめると

介護に追われている方は本当に時間がないと思いますので、重要なことだけまとめますと、

  1. 介護度の再審査は必要に応じて行うべき
  2. 病院や介護施設は見直してもよい
  3. 介護も重要ですが、自分も大事にしてあげてください

重要な点はこの3つです。再審査により介護度が上がったり下がったりすると思いますが、これは担当医によって大きく変わります。場合によっては病院の都合で正しい審査が受けられてないこともあり得ます。

病院や介護施設に無理を言えと言っているわけではありませんが、明らかに事実と違う場合、自分の思いと違う場合には、遠慮なくほかの病院や施設、地方自治体のケアマネージャーなどに相談してみてください。

2年間の介護であったこと

脳腫瘍・甲状腺がんの手術の末

父は、10年以上前に脳腫瘍が発覚し、これまでに2度ほど手術を受けていました。病状はかなり安定していましたが、ある日突然、玄関に腰かけたまま立ち上がることができなくなり、ろれつが回らなくなりました。すぐに病院に搬送し、てんかん発作という診断を受けました。

すでに2度手術を受けており、また、てんかん発作の薬を投与しても病状がよくならないことから、大学病院に救急搬送することになりました。

その後、効果的なてんかんの薬が見つかり、その後10時間以上にわたる手術を受け、父は何とか家に帰れる程度まで回復しました。この時点で、先生が介護度認定の手続きをすることを勧めていただき、審査の結果要介護2という認定をいただきました。しかし、その脳外科の検査の途中で、甲状腺のガンが見つかりました。

甲状腺は喉の部分にあり、手術によって話せなくなる可能性があること、ご飯が食べられなくなる可能性があることを説明されました。それでも父は、手術を受けることを決めました。

手術は成功し、甲状腺がんの大部分は摘出できましたが、脳腫瘍の兼ね合いですべてを取りきるのではなく、なるべく話したり食べたりができるような形での摘出となりました。

しかし、甲状腺の手術から、ご飯を食べた際にむせるようになり、誤嚥が原因で肺炎にかかることも出てきました。その際、胃ろうを勧められましたが、食事に制限がかかることを母が極端に避けたがったため、胃ろうはせず、飲み込みのリハビリを行うことになりました。

そんな中、再びてんかん発作が現れます。そして、脳の再手術を行うことになりました。このころには、コロナが蔓延しており、全国的な緊急事態宣言の真っただ中だったような気がします。そしてここから、コロナと真正面から向き合う日々が始まります。

4度目の脳の手術を受け、入院すると、一切の面会はできませんでした。もちろん手術直後は電話もできませんから、病状がわからないまま数日が過ぎました。久しぶりに連絡が来た父は明らかに衰弱しており、言っていることも支離滅裂でした。お医者さんに相談したところ、脳の手術を行うと、一時的に脳が冷えるため、3か月ほどすればある程度はよくなるという説明を受けました。

しかし、じゃあ3か月入院させてくれるのかといえば、そんなことはなく、病院は病床を空けることを迫られていました。そのため、とりあえずは自宅に帰ることを前提として地元の病院に搬送されることとなりました。

最初の選択ミス

ここで、私たちは大学病院の介護や転院について相談に乗ってくれるところで相談し、2つの病院から転院先を選ぶことになりました。

ここで、家から近いほうを選んだのが、最初の判断ミスになりました。

その病院に転院するときに、父の顔を久しぶりに見ましたが、すっかり痩せており、歩く姿もかなりふらふらとしていて、車いすが必要な状態でした。とはいえ、受け答えは何とか成り立っており、「ここで頑張ったら家に帰れるからね!」と母も言っていたのを覚えています。

しかし、その言葉とは裏腹に、母は老人ホームへ入居させることを考えていました。母も私も働いていること、その上トイレなどは自分でできないことを考えても、一概に正しい判断だとは言えなかったと思います。

そう思っていたところ、状況は一変します。入院してから数日で、明らかに父の容態は悪くなっていきました。電話口やLINEのやり取りは支離滅裂になり、病院から脱走しようとして玄関で動けなくなっているのを見つけられたり、母と離婚したいなどのメールが届くようになりました。

その一方で、病院からは早く退院するように迫られ、担当のケアマネージャーさんは、数日前までは「次の施設を見学しに行ってきてください。それからまた相談しましょう。」と言っていたのが、「なんでまだ予約してきていないんですか!?」と語気を強められ、私と母と合わせて、言っていたことと違う旨をお話ししに行きました。しかし、穏やかに医師からも説明を受けましたが、とにかく決められた日までに退院することを通告されました。

そして、紹介していただいた施設を2日ほどで駆けずり回り、候補を2つの施設に絞りました。

このタイミングで、介護度の再審査を行いました。前回審査をしてもらったのは3回目の脳手術の後のため、飲み込みの不都合などがない状況でした。歩行が以前より困難になり、言っていることも支離滅裂、飲み込みの不都合があると、なかなか状況が変わっており、また、要介護3以上でないと老人ホームへの入居が困難だったためです。

しかし、審査の結果は「要介護1」でした。まさかの以前より下がるという結果。この時は、まあ仕方がないと受け入れていましたが、母曰く、審査の際に看護師から「受け答えに何ら問題はない」と言っていたこと、病院を抜け出そうとしていたことを話していなかったことなどを聞きました。

この時は「お医者さんが診断書も書いているし、そっちには書いてあるでしょう。」と思っていましたが、コロナで病床をちょっとでも空けたい状況、意図的なことがあったのではないかと今は思っています。あの時母を信じてあげられなかったことを後悔しています。

ここからはひどいものでした。介護支援を利用しつつ家で介護するべきという話が活発になり、病床が埋まっていることをしきりに告げられ、コロナの影響で病床を空けなければいけないので一刻も早く退院するよう求められました。それでも、母は介護施設への入居を諦めず、結果として2つの候補の中からより介護体制がしっかりしていると感じた施設に入居の申し込みを行い、入居できることになりました。

介護施設も選択ミス

一概にミスと表現するのはどうかと思いますが、今となっては完全にミスったと思っています。

確かに、私たちが選んだ施設は看護師などもおり、総合的なケアが受けられる体制のところでした。

しかし、もう一方はいい意味でも悪い意味でもいい加減で、看護をつけるのであれば別注になり、身の回りのことはスタッフが行いますが、どこまでがスタッフの仕事でどこまでが別注する仕事なのかがあいまいでした。

母も私も、ある程度相談に乗ってもらいながら、いい意味でできることをお互いに模索して進めていくほうが合っていると感じ、私はそちらにお願いしたいと思っていました。

ただ、母は、設備がしっかりしていて、看護師も常駐しているほうがいいという理由から、その施設に入居が決まりました。

思っていた通り、初日からその所長と母は口論をしていました。内容は食べ物について

母は、仮に喉が詰まったとしても、最後まで食べたいものを食べさせてあげたいと思っている一方、もちろん介護施設側は、そんなリスクはとれませんとお断りされました。感情的なことを言う母と、施設の決まり事で大揉めとなり、結果として原則きざみ食、ゼリー程度なら出すという話になりました。

ここからは本当に地獄でした。何かあるたびに私が招集され、母と施設の方の仲裁に入っていました。ただ、「この状況で施設にいるのはおかしい」「母が言うことを全然聞いてくれない」などと、あまりにこちらに辛辣な対応をとっているので、一度私と母、加えて施設の方で話をするということをお願いしました。

そして話をしてみると、確かに母は話を聞いていませんが、どうやら所長さんも母の話をまともに聞いていないようでした。会合の内容も、施設のほうから一方的に介護を担当している方、看護師などの所感を伝えられるだけで、要は介護が必要ないということを伝えられるだけの場でした。私は割と相手のボールをクッションのように受け止め、自分の言いたいことを伝えるのが得意なほうですが、母はそうではありません。母も「最近電話でのやり取りがおかしい」「施設内でも転倒しているのになぜ一方的に自宅介護を強要するのか」「施設の決まりはわかるが、自室での食事をさせてあげてほしい」など、大切な話をしていましたが、明確な答えを全く返さず、「まずはこちらの話も聞いてください!」とおっしゃっていました。

しかし、こちらの話をする機会はないまま、看護師や担当介護士は中座したため、私は「確かに母は話を聞かないところもありますが、そちらも話を聞いてください!」と怒っていました。

その後、病院に連れていくため、何度か父を車に乗せる機会がありました。その際、私が迎えに行くまでの待ち時間を共用スペースで過ごしていることを聞きました。本人がしんどいと言っているので迎えに行くまでは自室で待たせてあげてほしいとお願いしても、決まりなのでそれはできないといわれてしまいました。

父の転倒

そして、何度か病院に通院をしていたところ、介助が甘く、不注意で父を転倒させてしまったことがありました。

これまで施設内で転倒したことがあったことは何度か聞いていたのですが、私自身が転倒させてしまったことは初めてでした。ろっ骨を強く打ち、本人が痛がっていたため、病院を回って遅い時間でしたがギリギリやっていた整形外科に連れていき、レントゲンを撮ってもらったところ、折れたりヒビもなく、シップを貼っておけば大丈夫とのことでした。

しかし、今思えば、この時点でおかしなことはたくさんありました。

  • 施設から病院に連絡を入れてくれるなどのフォローはなかったこと
  • 転倒してしまった段階より介助が困難であることが予想される中、同伴はおろか気を付けることのアドバイスさえなかったこと
  • その後の対応についての方針がなかったこと

この時は、それが普通だと思っていました。

肺炎で再度入院

そんなことを繰り返している中、父が高熱を出したという連絡が入りました。

このころになると、その施設の実態が浮き彫りになっていました。看護師常駐とは言うものの、実際は施設内に常に看護師がいるわけではなく、当直のように複数の施設を担当し、電話があれば駆けつけるというものでした。

結局、施設では診きれないということになり、最初のてんかんで運ばれた病院に連絡し、何とか入院をできることになりました。

何とかというのも、当時は全国的な緊急事態宣言こそ終わっていたものの、熱が出た人を病院に入れること自体が困難で、最初は断られたのですが、誤嚥性の肺炎の可能性があることがカルテに残っていたため、特別に入院をさせていただくことができました。

医師と家族の選択

大学病院を退院する際に、脳腫瘍と甲状腺がんの経過を見るため、大学病院から転院した先の病院を退院したら、一度診察に来て欲しいと言われていました。

近く大学病院に伺う予定だったのですが、急な高熱で再入院となってしまい、大学病院での診察は延期に。

前回、この病院でお世話になったときには、脳腫瘍の治療と甲状腺の経過観察が目的だったため、担当医は脳外科の先生でした。しかし、今回は緊急入院という事もあって、担当医は一時的に内科の先生になりました。

余談ですが、入院したことを知った脳外科の先生が、病室まで顔を見にきてくれたそうです。血の通った方だと感じました。

その内科の先生にある日突然呼び出されました。

「本人の認知機能、運動機能がかなり下がっているので、これ以上の積極的治療は本人のためにならないかもしれません。看取りの方向で考えていってはどうですか?」

また、2択を迫られました。がんと向き合うか、がんとともに生きるか。

私も、まともに話すことができなくなった父の自己判断に任せることはできず、母もそれを望んだため、看取りの方向で考えることとなりました。

つまり、心臓が止まれば心臓マッサージもせず、呼吸が止まれば肺に無理やり酸素を送るようなことはしないという決定です。

そして、内科の先生は、介護度の再申請を勧めてくれました。これ以上の肺炎を防ぐため、胃ろうではないですが、点滴のような形で栄養を摂取し、食べ物も食べられないような状況だったため、少なくともこの状態で「要介護1」認定はあり得ないという事で、病院のケアマネージャーやリハビリの担当の方とも相談し、再申請を行いました。

結果は、「要介護5」となりました。正直なところ、介護度の判定はお医者さんの意見書ひとつなのだなと感じました。

そして、看取りの病院へ転院するための流れが始まりました。

最期の決断、のはずが…?

地域のルール上、その病院から看取りの病院へ直接転院することは難しく、一度リハビリなどを専門に行う病院を経て、看取りの病院へ転院という事になりました。

リハビリを中心に行う病院では、最大2か月程度入院ができ、その間に看取りの病院を探すという事になりました。

この病院では、お医者さんはお忙しいのかあまりお話をしてくれませんでしたが、看護師の方、介護やリハビリにあたる方が、方針などを丁寧に説明してくださいました。そして、なるべくご飯を食べさせてあげたいこと、できる限りのリハビリは行ってあげて欲しいことをお伝えしました。

入院して1週間ほどで、父から電話がかかってきました。

「暇やから、何か雑誌買って来てくれ」

明らかにこれまでと電話口のトーンが違いました。甲状腺の手術の後遺症で声は小さく聞き取りにくいですが、その声には感情があり、最後には「ありがとう」と言って電話を終えました。

慌てて翌日に歴史雑誌を買って父に届けました。コロナの影響で本来面会はできませんが、遠くからですが父の顔を見せてもらいました。この時に看護師さんに支えながらですが立ち上がってこちらに手を振っていました。

少なくとも、1か月前まではすべての活動に介護が必要だという認定を受けた父が、この短期間でどうやってここまで回復ができたのかは本当の意味で知ったのは、もっと先のことになります。

この時点でわかることは、この病院のリハビリのレベルは段違いだという事です。なにせ実際にリハビリを行っている姿は見られませんでしたが、ここにいる2か月で心も体もみるみる回復していきました。

直接は見られませんでしたが、看護師さんが言うには、最終的に一人でトイレに行くほどまでに回復したそうです。勝手に行って怒られたそうですが…。

そんな中、私にある疑問が湧いてきました。

「お父さんの意識も、体調も、心もしっかりしてきた。この状態で看取りの病院に転院することは、いわば見殺しなのではないか?」

転院が数日後に迫ったころ、母にこのことを打ち明けました。

母にも言い分がありました。父が何かの拍子に突然倒れたり、帰宅したら家で倒れているという状況になったら、私は耐えられないし、パニックになって何もしてあげられないと。

この時点では、私もかなり強く自分の思いを伝えましたが、両者の意見があまり噛み合うことなく店員の日を迎えました。

そして転院の日。残念ながら意見のまとまらないまま、父を乗せて転院先の病院に向かうとき、私も母も驚愕しました。父が完全に歩けるようになっていたのです。もちろん多少はふらつきがありますが、補助が無くてもほぼ問題なく歩けるようになっていました。

数か月前まで、車いすに乗ることすら難しかった父が、しっかりと自分の足で歩いていました。私は出迎えてくれた看護師さんに本当にありがとうございますとお伝えし、最後の病院となるであろう病院に向かいました。

病院に着くと、まずは父は病室に、母と私は待合室で待っていました。ここまで来たら腹を括るしかないと、母とあまり話すことなく待っていると、院長先生が話しかけてくれました。そこで、院長先生から意外な言葉がでました。

「少なくとも、ここで入院するような状態ではないと思います。」

また、選択がやってきました。

大きな分岐点と、父の努力

ここでもまた、あの酷かった病院と同じことを言われるのかと身構えましたが、それは全くの勘違いでした。

まずは、父と3人で話す機会を設けましょうかと言ってくれました。コロナ禍でこんな話をしてくれたのはここが初めてでした。状況が状況だったというのはあるかと思いますが。

しかし、母はそれを断りました。私はそれを制止し、絶対に話す機会を持つべきだと言いました。

すると、先生は母にこんなことを言いました。

「お父さんは、延命を望んでいますか?」

「お母さんは、何が心配ですか?」

先生は、順番に母の悩んでいることを冷静に時間をかけて聞いてくれました。そして、母の本質的な部分、「父の死ぬところをこの目で見るのはどうしても避けたい」という話が出てきました。

そこまで話して、先生が今度は私に話しかけてくれました。

「息子さんは、これまでの話でどう思いますか?」

私も、素直に気持ちを伝えました。父が元気なら、できれば自宅で介護サービスを使いながら過ごさせてあげたいこと。それが叶うなら自分も実家に戻り介護を手伝うつもりはあるという事を伝えました。

ここからが、全く今までのお医者さんとは違いました。

「お父さんにも私から話はしてみますが、本人に延命の意思がないなら、無理に『もう治療は行いません』と改めて伝える必要はないと思います。お父さんも本当は腹の中ではわかっているのかもしれませんよ。」

そうか…。じゃあ、お父さんはもうこのままゆっくりと死に向かうのか…。と腹を括りました。が、それも違っていました。

「しかし、この病院でこのまま最後まで。というのも違うと思います。家に帰るかどうかは改めて考えるとして、この病院の系列で、あまり長くはいられないけれど老人保健施設があるから、そこでリハビリを行いながら、自宅に戻るか、老人ホームに入れるか考えてみませんか?」

先生と話し始めてから1時間ほど。院長先生は他のスタッフに自分の仕事を次々に渡しながら、無理やり時間をとって納得がいくまで話をしてくれました。

多少の誤嚥はあるものの、ミキサー食でごはんも食べられることを確認して、その病院に入院中に動脈の点滴用チューブを外し、2週間ほどで老人保健施設に移ることになりました。

介護施設の雲泥の差

今回入るのは、老人保健施設。原則として自立支援を行う場所です。

なので、基本的には家での介護を目標としています。ルールだけで言えば、最初に入った介護施設より家に帰らせるという意図は強いはずです。

施設のルールとぶつかってまた揉めるのだろうと思っていました。しかし、入所の時から、その対応は全く違っていました。

なるべく食べたいものを食べさせてあげたい旨、あまり人とのコミュニケーションが好きではないので、無理にレクリエーションなどに参加させて欲しくないなど、こちらの要望をゆっくりと聞いてくれました。

原則施設の医師の判断は必要だけれど、ミキサー食ではありますが、様子を見てきざみ食やデザートなども食べてみようという事になりました。

そして、私も母も、病院や老人ホームから退所を迫られたことがかなりトラウマになっており、いつ頃までおいていただけるか確認したところ、

「老人ホームの順番待ちはしておいた方がいいと思うけど、いつまでという事は言わないからゆっくり探して大丈夫ですよ。絶対に次のことが決まっていないのに出て行けという事は言いませんから。」

私たちは正直拍子抜けしました。それとともに、かなり安心したのを覚えています。

そこから、父の回復は驚くべき程になります。ご飯はミキサー食ではありますがしっかりと食べており、デザートまで完食。トイレもほぼ見守りがいらないほどにまで回復し、勝手に歩き回って注意されるほどでした。(病院を脱走しようとしていたころとはニュアンスが違い、夜にトイレに行くときにわざわざ呼び出すのを遠慮していたようです。)

「家に帰りたい」「帰らせてあげたい」

父が気が動転しているころから、これまでで一貫して言っていることがありました。それは「家に帰りたい」ということです。大学病院でも、転院した先の脱走しようとした病院でも、老人ホームでも、緊急入院した病院でも、転院したリハビリの病院でも、看取りの病院でも、現在の介護老人保健施設でもそれだけはずっと言っていました。

老健施設では、面会はできませんが、テレビ電話などで数分間お話をさせてくれました。その際にも、家に帰りたいと常に言っていました。

その思いが、ついに母の気持ちを動かします。母が、リハビリを見てみたいと相談したのです。

そこでは、介助されながらの段差の上り下りや、手すりにつかまってのスクワットなど、かなり本格的なリハビリに挑む父がいたそうです。私は同行できなかったのですが、そのあと母が施設の方に「外泊させてあげることはできないですか?」とお願いしたそうです。

私は本当に嬉しいと思いました。父の努力がついに母の気持ちを動かしました。これは自宅介護の大きな一歩だと感じました。しかし、施設の回答としては、コロナの状況もあり外泊はとても難しいとの事でした。

しかし、すぐに連絡が入ります。「担当のお医者さんに相談したら、『やってみましょうか』と言ってもらえたので、一度外泊してみましょうか!」

私は本当に喜びました!1年半ほど全く家に帰れなかった父が、数日とはいえ家に帰れる!

しかし、この決断は施設にとっては大変なものだと後で知ることになります。

まず、現在の施設の方と、次にお願いする予定の老人ホームのケアマネージャーの方が4人で家に訪問して下さって、必要なもの、足りないもの、生活において気を付けるべきことを徹底的に調べに来てくれました。補足ですが、次にお願いする予定の老人ホームも、看取りの病院、現在の老健施設の系列です。

その後、施設のルールとして外泊ができないこと、老健に入所している期間は自宅介護に介護保険が適応できないことを何とかするため、一度退所し3日後に再入所するという手続きを取ってくださいました。例の件があり、再入所の際に断られることを母は恐れていましたが、施設長の方が「そんなこと絶対言わないから、何とかしてあげるから一回やってみて!」といって励ましてくれました。

2泊3日、奇跡の帰宅

帰宅当日、私と母は父を迎えに行きました。

診察や転院の際に父を乗せていた時とはわけが違います。

念のため父を後ろから補助できるように構えていましたが、父は玄関の段差を昇り、居間まで歩いて行きました。

「おかえり」と私が言うと、「ただいま」と父が言いました。

そして、今のソファーに腰掛け、「落ち着くなぁー」と言っている父を見て、私は泣いていました。

残念ながら、私はそのあと出勤だったため、あとのことは母に任せて、何かあったら遠慮なく電話してくれと伝えて出勤しました。

まぁ、予想はしていましたが、母はドーナツやケーキなどを父に食べさせていたようです。私は、少しでも長く父に生きて欲しいと思っているので、「うるさくは言わないけど、せめて俺がいないところで食べて」と伝え、父と母がなるべく納得して過ごせるようにしていました。

3日というのはあっという間でした。父は父で久しぶりにパソコンを触ったり、母は母で本人の食べたいものを食べさせてあげたり、私もなるべく父と一緒に過ごし、とりとめのない話を少しでも多くの時間楽しんでいました。

再入所時には、私が仕事だったこともあり、施設の方が迎えに来てくれました。幸い、心配していた誤嚥による高熱などもなく、安堵していました。

実は、2週間後にも3泊の外泊を予定していたため、また帰って来れるからねという話をしていました。

しかし、この2週間で状況は一変してしまいます。

急変、そして

1週間ほど経ったころ、施設から電話がかかりました。

「のどの腫れが大きくなってきていて、おそらくは出来物だと思うので先生が軟膏を処方してくれました。」というお話でした。

しかし、2日後、少し事情が変わってきます。

「のどの腫れが大きくなって、赤黒くなってきています。大きい病院に一度診せた方がいいと思います。」

大きな手術から2年ほどが過ぎ、治療をしないと決めた病状が再び悪化したことは明白でした。施設の方からは、緩和ケアの病棟に入院させてもらえないか聞いてみたらどうかとアドバイスをいただき、病院に向かいました。

再び、大きな病院へ。以前お世話になっていた、最初の脳手術をし、老人ホームから緊急入院した病院へ向かいました。こんなこと言いたくないですが、この病院の耳鼻科の先生が今回の一連で関わったお医者さんの中で一番人としての在り方を疑いました。

母は、自分の思い込みと要望が激しく、確かに何かを説明するという場においては邪魔だと思います。しかし、家族の大事な決定をしなければならないところにもかかわらず、本人に伝えてほしくないと言っていたがんの病状を伝え、病気を放置していたことを叱咤し、検査結果の説明では私のみ診察室に呼び出しました。話を聞きたい母が無理やり診察室に入ってきましたが、そこで話は終了し、とにかくここではどうにもならないので、大学病院に行ってくださいと告げられました。緩和ケアなんて一蹴されましたね。

大学病院に行く意思はないことは、私たちがこの病院で決めたことであり、カルテにも載っていました。そして、結局はその病院の呼吸器外科を受診するよう言われました。

呼吸器外科で告げられたことは、がんが肺に転移しており、一度大学病院に行った方がいいという事でした。先生は、カルテを見て、本人の状況も変わっているので、一度3人でしっかり話をした方がいいと言ってくださいました。

私は、父に、自分の病状を聞きたいかどうかなるべく柔らかくなるように努めながら確認をしました。すると、知りたいという返事だったので、先生から、がんが肺に転移したこと、やれることは抗がん剤治療しかないこと、いずれにせよこれ以上の治療を望むなら大学病院の受信が必要なこと、抗がん剤治療も楽ではないこと、後になって助けてくださいと言っても助けてあげられないことなど、厳しい内容はありましたが、時間をしっかりとってもらい、家族で話し合う時間を作ってもらいました。

そして、3人で出した結論は、一度大学病院に話は聞きに行くとして、もし副作用などが少ない治療などがあれば行うが、基本的に治療を行わないということでした。

この期間は、ショートステイという事になっていたため、病院に行った日は自宅で一泊してきてほしいとお願いされていたため、その後自宅に戻りました。先日とは全く状況が変わっての帰宅…。父からは笑顔がすっかり消えていました。

それから1週間もたたないうちに、父の病状は悪化します。呼吸が十分にできなくなり、酸素マスクが必要となりました。大学病院に行くのは難しいという判断になり、再びリハビリでお世話になった病院に入院することになりました。

父が元気になった理由

入院の際に、担当医師から話を聞きました。恐らく長くはないだろうという説明と、緩和ケアの病棟に入院となること、基本は点滴だが可能な限りご飯は食べさせてくれることなど、お話をいただきました。

状況が状況ということもあり、先生が特別に一人ずつであれば面会を許可してくださいました。

電話ではもはや何を言っているかわからない状況だったため、なるべく父に面会に行きました。そもそもこの2年ほど、まともに面会はできませんでした。それが面会できる、しかも、もう指折るほどしか会えないかもしれない。本来は午後1時からの面会でしたが、お願いして仕事前の午前中に面会させてもらっていました。

やがて、父はまともに話すことができなくなり、意思疎通は首を振るだけになりました。酸素マスクの酸素濃度が日に日に上がっていきました。年末年始は面会ができないというルールでしたが、相談すると、是非会いに来てあげてくださいと快く受け入れてくださいました。

ここで、この病院で父が心身ともに圧倒的な回復を見せていた理由を知ります。この病院では、父がどんなに衰弱しても、話しをしなくなってしまっても、ほどんど動かなくなっても、巡回の際には患者さんに声をかけ、手を握り、最後の最後まで人間として父を扱ってくれました。

衰弱して見えもしないとわかっている病室の個室にあるホワイトボードには、毎日日付が書かれ、クリスマスにはサンタさんの絵が描かれていました。

父は、コロナの折、この病院に来るまで孤軍奮闘だったのだと思います。それがこの病院にきて、心に寄り添ってくれる人、本気で応援してくれる人に支えられながら、たった2泊3日ですが、家に帰らせてあげることができました。

この病院と出会っていなければ、父を帰らせてあげることは絶対にできなかっただろうと痛感しました。

そして、仕事もお休みに入った2021年12月29日。私は母と一緒に、本来面会ができない真っ暗な病院に二人でお見舞いに行きました。朝は多少反応があったとの事でしたが、その時には、もはや話すことはできず、私たちはただ黙って手を握っていました。

車で家に帰る途中、病院から電話が入ります。

「血圧が下がっているので、すぐに病院に戻ってもらえますか?」

私たちは、深呼吸をしてすぐに病院に戻りました。2年ほど前に覚悟したこと、とはいえ息を飲みました。

正直、見た目には父の違いは判りませんでしたが、数日前までは180ほどあった心拍数が、50ほどに下がっており、ギリギリの状態だと悟りました。

看護師さんが、目に涙を浮かべながら「もう、15分とは言いませんので、ゆっくり話しかけてあげてください。必ず耳には届いているはずですから。」と言ってくださいました。

それから1時間ほど、父の手を握っていました。もう、してあげられることはそれくらいしかありませんでした。

先生が、数分おきに、点滴の量を弱めたり、血圧を測りに来ていました。

そして、いよいよ呼吸が途切れ途切れになり、私と母は、これまで父を心配にさせまいとあまり言ってこなかった「ありがとう」「ごめんね」ということをしきりに言っていました。

やがて呼吸は止まり、心拍が0になりました。先生が診察されて、死亡を確認しました。

父の死と向き合ったとき

私と母は、その後意外と冷静でした。

母方の伯父、伯母に連絡し、病院のアドバイスに従い葬儀社に連絡、父を乗せた車を見送った後、父の入院用具を持って家に帰りました。

担当の先生、看護師さんもしっかりと父を出迎えてくれました。患者の意識がなくなろうとも、また、患者が亡くなっても、最後まで父を患者として、人として扱ってくれた本当にいい病院でした。

余裕のある介護

以上が、私の記憶をたどって書いた、2年間の介護の記録です。最初に要介護2の判定をいただいてからは4年経っていますが、そのころはコロナも無く、訪問看護と誤嚥のリハビリのみでしたので、そこまで大変なことは無く、自分でも介護をしていたという思いはないため、今回の紹介では省いています。

また、家での介護は実質あまり発生しておらず、参考にならない部分もあるかもしれません。

ただ、このブログを読んでくださっている方の親の世代、2,30年前の介護の状況と今では明らかに介護に利用できる制度は変わっています。ただただ大変だと思うのではなく、お住いの市区町村の介護課などに気軽に相談してみるといいと思います。

その上で、何を利用するか。どこを利用するかは吟味することをお勧めします。

あまりにも文章が長くなりすぎましたので、実際にどのようなことに気を付ければよかったかは後日改めて別記事にしたいと思います。冒頭で少しは触れましたが、ちゃんとご説明したいと思っています。

ここまで読んでいただきありがとうございました。

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